イクタケマコトのブログ

イラストレーター・アーティストインレジデンス黄金町参加中。
MENU

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

本の質量

__.jpg

 分厚い本、文庫本でも京極夏彦くらいのものを読んでいて思うことがある。それは、読み進めるに連れて本が軽くなるということだ。読み始め、ミステリで言えば殺人が起きたか起きてないかの時は非常に重みを感じる。中盤、謎が謎を呼び事実と推測が複雑に絡まってくる頃には、重みをさほど感じない。終盤、探偵が犯人を指摘し紐が解かれてる頃には重さを全く感じなくなる。最後、内容に言及しているであろう中島河太郎の解説を読んでいると、再び少しの重さを感じているのだ。

 これは、精神的な重みではないかと思う。開く前は、まだ物語の入り口であり本のことはよく分からない。この時点では、本の内容ではなく、本はただの本である。「かわいい猫百科」も「経済学入門」も「江戸川乱歩全集」も全ては本という括りに納まる。本は物理的な存在であり、認識する手段の1つとしての質量、重みを感じているのではないか。

 ページをめくるに連れ、本は本だけの存在ではなくなる。自分にとって、友人にも発奮剤にも投げ捨てるものにもなる。ただの飾活字情報が私の頭の中に入り、やがて私の一部となる。それは、本質の部分で本と同化した状態と考えられる。つまり、本の質量≒私の質量の一部ということになるのではないか。本が軽くなる傾向が自分にとっての良い本に限られるのも、本がより私にとって重要であり深い結びつき、繋がりがあるからと考えると納得できる。面白くない本は、本そのものの物理的存在理由でしかないからだ。本を読み始めてもう何年にもなるが、毎年体重が増加しているのはその所為ではないだろうか。


 しかし実際はそうではない。が、本が軽くなるのは本当である。ぼくは本を読みながらコーヒーを飲んだりするので、大抵は左手で本の左側を押さえて読んでいる。始めは左側に厚み、重みがある。かつ、机に置くと右側や内側のページが読みにくいので、どうしても宙に浮かせて読まなければならない。中盤に行くと、右に厚みが出来るので机に置いて読めるが、それでも時々支えないといけなくなってしまう。ページが残り少なくなると、完全に机に置いたまま読むことが出来、左手は添えるだけで良い。最後の解説は、しっかり読む性質なので両手で持つ。途中であきらめる本は、重いままで軽くなるまで読まないだけのこと。


 そして、太ったのは当然、歳と読書ばかりしての運動不足である。

スポンサーサイト

Leave a reply






管理者にだけ表示を許可する

Trackbacks

trackbackURL:http://tomotown.blog98.fc2.com/tb.php/497-0a62c2e4
該当の記事は見つかりませんでした。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。